あれから10年…

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東日本大震災から早くも10年が経ちました。


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地震が起きた時


独立して3年目の時でした。下請けとして製薬会社の植栽をしていた時に地震が起きました。最初は大したことの無い揺れでしたが、グラグラ揺れ始め、一瞬自分の体がおかしくなった様な、何とも言えない揺れでした。胸ぐらいの深さの植栽の穴の中にいた作業員数名を急いで上がらせました。
4階建ての建物の足場は、物凄く揺れ大理石張りの外壁に近づいたり離れたり、今にも倒れそうな感じでした。当然、現場は中止になり休憩所で待機する事になりました。

待機中に起きた事

1社で100名以上作業員が来てる様な、とても大きい現場でした。地震後すぐに休憩所での待機になりました。会社毎に点呼をし、怪我人は誰もいない様でした。確か停電になったと思います。当時iPhoneとガラケーの2台持ちでしたので、TVの見れるガラケーで状況を確認したところ、地震の被害はそんなでも無い様に見えました。しかし…津波がやってきました。最初津波の警報は出ていました。日本地図が画面に出てて、津波が来そうな範囲を色分けして表示していました。ただ、「津波なんて来ても大したことねー」が命取りになりました。津波はヘリの映像でしたが、黒い海水が畑や民家や車を飲み込んでいく様子が映し出されていました。映像でしか見ていないので、ガラケーの小さい画面でしか見えないので、映画を見てる様であまり実感が湧かなかったのが正直な感想です。

現場から自宅に帰って

電話が繋がったのか記憶にありませんが、現場は中止になり、帰宅することになりました。帰宅途中は信号が消えており、軽い交通パニックになってたと思います。余震が続くので道路を走ってても吊り橋の上を走ってる様な、車が揺れてるのか、道路が揺れているのか何とも言えない感じでした。家族の安否を確認して、夜には電気が復旧してTVをつけたら…とんでもない被害が出ていました。予想を遥かに超える津波の被害。川が増水したレベルとは格段に違う、自然界の恐ろしさ知る事になりました。その日はそのまま続く余震にビビりながら普通に過ごしました。

そして原発が爆発

そもそも、原発が近くの海沿いにあった事すら知りませんでした。水色のモザイク風の建物が一瞬で吹き飛んだ映像に衝撃を受けました。放射能が空中に拡散したと思いました。その後、自衛隊を中心に放水活動が始まり、必死の冷却作業が続いていました。1号機と3号機は水素爆発し、2号機は何とか免れたみたいでしたが、現在では2号機が1番状況が良く無いと報道されてました。汚染水をタンクに貯める工事も始まり、円柱の大きい構造物が原発の周りにたくさん作られて行きました。そこに汚染水を貯め続けるとの事でしたが、まさか、10年たった現在も汚染水の処理が決まってなく、処理に困ってるなど当時は想像もできませんでした。

困った

いろいろな面で困り事が起きました。物流が止まり物が届かなく無くなりました。食料や日用品もそうですが、1番はガソリン。やはり車社会なので車が無いと何も出来ないのを痛感しました。ガソリンスタンドは交差点に多くあります。東西南北の片側2車線の左側の車線はとんでもない渋滞になり、順番を待てない、いや、むしろどこに並べばいいのかも分からない状態の行列で揉め事もおこりました。しかも、品薄ですぐに給油出来なくなりました。山形の場合は新潟に行くとガソリンが買えると噂になり、携行缶をいっぱい荷台につけ、3、4時間かけ買いに行きました。ただ、運送会社などは備蓄の燃費があった様で、私もそこから軽油をポリタンク2個分頂いて給油させてもらいました。とてもありがたかったです。現在では脱化石燃料ですが、これが震災の様な時に吉と出るか凶と出るかは甚だ疑問です。

暫くして宮城に行ってみたら

当時は東北の人達は自分達の生活を守る為に必死で、ボランティアの余裕はなかったと思います。そもそも、県外に行く道路や燃料が無く、行こうにも行けない状況でした。1年位経ってから宮城県の海沿いに行ってみました。海沿いにはアウトレットモールや、フェリーのターミナルや、バイクのツーリングなどで頻繁に訪れていたので、ある程度の街並みはわかりました。しかし、山形とは比べられないとんでもない被害でした…。1年近く経っても全く復旧が始まっておらず、道路は段差や瓦礫や泥だらけ、TVで見た船はまだ屋根の上に取り残され、車はひっくり返ったままや泥だらけでメチャクチャになったまま、海に近い住宅街は基礎だけが残った状態で、海から少し離れた住宅街は、1階が無くなって柱だけの状態、さらに離れた住宅街は泥や柱や屋根や車など、とにかく見た事も無い量の瓦礫が引っかかる様に押し寄せていました。津波がここまで来たと分かる、そんな状況でした。TVで見る被害も悲惨な物でしたが、肉眼で見た被災地は大変な物でした。もし今地震が来て、津波が来たらと思うと恐怖すら感じました。

震災復旧仕事

震災までは虫の息だった建設会社も一気に息を吹き返しました。復興の仕事が大手ゼネコンより発注されて、山形からも多くの人が仕事をしに宮城県などに行きました。復旧の仕事はもちろんの事、田んぼにかぶった海水のせいで、塩分が濃度が高くなった土を入れ替える仕事や、放射能が庭の土に着いた部分(庭を含め敷地全体の土や砂利)を入れ替える仕事。この仕事は視察に行きましたが、とんでもない仕事でした。詳しく説明すると、まずエリア分けして、1軒5人くらいの班を作り作業をこなして行きます。作業内容はその家の表土を5cm敷地内すべて人力で掘ります。裏庭に5cm×面積で計算して、発生する汚染土を埋める穴を人力で掘ります。汚染土を埋める為に掘った発生土を今度は家の周りに敷き均します。この作業を永遠に繰り返します。結局、何週間か経てばまた戻って同じ家をやる事になり、放射能が収まるまで、永遠に繰り返す事になります。かなり矛盾を感じました。現場にいる作業員も仕事をした事が無いような親子連れ等酷いものでした。

また、請求書のたらい回しでお金を貰えない業者が出始めて、最終的に殴られて泣き寝入りの業者もいたと聞きまし。とにかく震災直後は詐欺紛いのきな臭い現場環境だったことは間違い無いです。

嫌な噂

震災直後は嫌な噂もちょくちょく聞くようになりました。例えば、タオルあげるからどこどこに来てと言われ、行ったらレイプされたとか、中国から窃盗団的な集団がやってきて、遺体から貴金属を盗んで行ったとか…レイプされて騒いだらそのまま殺されて、震災で死んだ事にされても分からないくらい、遺体はそこらじゅうにまだまだあったと聞きました。また、自衛隊の人が聞いた話では遺体を見つけると1体3000円?くらいの報酬が貰えるとのことでした。が、見つけても腐敗が酷く、見つけたと言えない様な状況だったそうでした。見つけたと言えば自分で処理しないといけないからです。TVでは伝えられない悲惨な状況です。

あれから10年経って今思う事

これは私だけかもしれませんが、地震が来ても大した事がないと思い込んで、これまでの経験上、大丈夫だと勝手に判断していました。また、急いで外に出る行為、逃げたり隠れたりする行為、高台に逃げたり、それ自体、何となく恥ずかしい気持ちがありました。周りの人達の「大袈裟過ぎるだろ?」という様なそんな視線や態度を感じるんじゃ無いかと、そう思っていました。あんなにアナウンスされてた津波だって来ないから大丈夫だと、たかをくくって逃げ遅れた人達も大勢いると思います。

この震災で分かった事は自然は人間がどうこう出来るものではないということでした。人間が支配した様に感じていましたが、全然そんな事はなく圧倒的に無力でしかありませんでした。自然はとても良いですし、自然を相手に仕事をしています。

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